甘さ控えめの白あんが、ふっくらとした皮に包まれた
上品な和菓子です。
京都の挨拶回りの手土産に喜ばれるそうです。
お土産に添えられていました・・・
福ハ内 小さな物語
銘菓『福ハ内』が誕生したのは明治三十七年、
すなわち日露戦争開戦の年でした。
鶴屋吉信四代主人寉堂がまだ若かりし頃の節分の日、
五条の通りを過ぎると、官女姿のとある商家の幼い京娘が、
お多福のお面をつけて、
「福は内、
鬼は外・・・」
と声をはりながら通りに向かて節分の豆まきをしている光景を
目にとめました。片手に大きな桝を抱えて豆をまく姿の
いかにもほほえましく、晴れやかな印象は、なぜか寉堂の
心を強くとらえました。
そしてその印象をなんとかお菓子にできないものかと、
さっそく創案にかかったのでした。彼は菓子づくりの名人でした。
こうして完成したのが『福ハ内』です。
桝は、昔から祭神、恵美須、大黒など福の神への供物、
節分の器に神霊を招く呪具として用いられてきました。
その伝統紋 の縁起は「益々繁昌」につながります。
そこで桝をかたどった杉の容器にふっくらとした桃山製の
お多福を盛り、対角に竹を渡しました。
立春を祝う『福ハ内』はそのますます繁昌の縁起が
よろこばれて人気を博し、京の恒例の新年菓、節分菓として
きわめて長い歴史を数えております。
大正時代には、竹内栖鳳とともに京都画壇に新風を
吹き込んだ山元春拳画伯が、『福ハ内』のために
お多福の絵を描き、それに文人画家富岡鉄斎先生は、
このうまき
お多福豆を
めしたまへ
よはひをますは
受合申す
と賛を付しました。『福ハ内』の菓銘の揮毫も寉堂と親交があった
鉄斎先生の筆になるものです。